妙見様の信仰とご利益
妙見様は、昔から国土擁護・豊年・酒造・計量・運勢・富貴寿命の守り本尊として、広く日本中に信仰され、今も全国各地に妙見という名のついた宮・寺・山・神社が無数にあります。
古い文章に出ている妙見様の事は、大江匡弼という学舎が書いた「北辰妙見菩薩霊応編」という書物に、北辰妙見は太一北辰尊星と云って諸々の星の上首で又天御中主尊国常立尊と申して神仙の始祖、菩薩中の最上、儒教では太一上帝卜筮占の家では大極元神と尊崇しています。
我が国の朝廷では、毎年正月元旦、寅の一点に天使様が北辰尊星を御拝なされて、御燈を北辰に奉られた。日本中、皆、北辰尊星への御燈を神供して、天下泰平五穀成熟祈願成就、富貴万福如意吉祥を祈念したのは、妙見様が国土擁護・災害を滅し、国難を滅除することを誓願され、開いては北斗七星となり会わせては妙見菩薩となる。有名な京都・三井寺では尊星王と呼び北斗法と同一として最大妙法とされていた。又、東寺では妙見菩薩といって天災地変、その他、眼病等の平癒にこの法を修するので、即ち昔から佛としても神としても国民一般に徹底的信仰されるほど盛んなものであり、今も山中の孤村迄に点々と祭られて有ります。殊に有り難い縁起のある霊場は、秩父の大星神社(今の秩父神社)、周防の氷上山・星の宮、及び当・武州武蔵国百村の妙見様が、古くから日本三妙見といわれて有名です。江戸時代から今の東京都江東区柳島の妙見様も、白蛇とともにそれに次いで信仰されていたことは、皆様もご承知の通りであります。
秩父の大星神社
秩父の大星神社は、「旧事本紀第七十一神社本紀」の中に、「父忍國に大星神社あり。豊浦宮天皇(仲哀天皇)の略北辰この地に降り玉うて吾れ是れ北辰の精なり。妙見菩薩と名づく。天下一切のこと至心に我魂を祭らば福として得ず云うことなく事として成らずと云うことなく、この國の人、昔より此の名を呼んで天御中主大神と称し、是に由って祠を立てて祭る」とあって、それは妙見尊が我が国では神代の主神であることを明らかにされ、その後、推古天皇の御宇に北辰霊星を御祭りになって宮中で諸高僧を招されて尊星王最勝王経の御修法をなされ、自覚大師も深く崇拝されて各地に御社を建立されましたが、大星神社もその一つであります。
氷上山・星の宮
この宮は、推古天皇の三年乙卯九月十八日、周防國、青柳の浦、即ち今の山口県都濃郡鷲頭に、突如、天の一角から赫々と輝いた星が下って松の大木の上に留り七夜光明を放つこと満月のようであった。人々大いに驚き、占って貰った処が、我は北辰妙見尊星なり。今より三年にして三月二日、百済國の琳聖大子、此の国に来るべし。吾れこのことを聖徳太子に告げて彼の琳聖を此の国に留むべしと告げられた処、果たして琳聖大子、同五年三月二日に来聴せられたので、時の帝は長門國・大内に宮殿を造られた。大子は鷲頭山に北辰尊星を勧請されて星の宮と称し、九月十八日を祭日と定められた。大子は帰化され、大内多々羅正恒と云うは其の子で、大内家の祖先で、此の五代の孫・茂村が周坊の氷上山に移した。様々奇瑞のあったことが後太平記に記されている。
武州武蔵国・百村の妙見様
次に当山の縁起ですが、淳仁天皇の天平宝字四年(西暦760年)、新羅軍が九州に侵略して来た時、開山・道忠禅師は勅命を奉じて此の地を相して、伏敵の祈りを七日七夜にわたり尊星王の秘法(今の星供の法)を修した処、満願の夜、妙見菩薩は青龍に乗って現れた。今も其の現れた場所に化石したる大樹を存す。時に同年秋、七月二十三日に国難が忽ち消滅し、天皇も叡感せられて国主・当麻眞人村継に命じて一寺を建立して道忠禅師の自刻の妙見像を安置し奉る。当山の開基は、比叡山・延暦寺より古いこと約三十余年、紀州・高野山より早いこと約六十余年である。朝廷、将軍これ等歴代の高貴な方々の御帰依信仰が特に篤かった。中でも源頼光朝臣は、霊夢に感じて武蔵百村の山上に宝殿・聖天堂・滝蔵堂・経蔵・鐘楼等を建立され、次で、源頼朝公は平家追討を祈って成就され、霊験に感じて武蔵・相模両国の家人に命じて寺院塔堂の大修理をされた。実に赫々たる御利益は、当時、上下満天下の信仰の的となっていました。又、幕末の忠臣で維新の功臣であって、明治大帝の御信任の篤かった有名な山岡鉄太郎・鉄舟先生は、毎月月参を怠った事がなく、殊に当山中に玉川石を使って黙想祈念の壇場を作られ、一字・一尺余りの大文字で書いた「北辰妙見菩薩」の旗幟・二流れに署名を謹書され其の信仰の徹底した事を表しています。